あの頃の僕はとても裕福で周りの人にも恵まれていた。 幼なじみのアリサは綺麗とか可愛いとかの部類ではなかったけれど僕にしてみれば中身がとても綺麗で可愛く、なにより僕を愛してくれた。アリサとは生まれてからずうっと一緒で同じように育ってきて、恋愛感情なんてものは皆無に等しかった。けれどある日、2人だけが知る秘密の場所でアリサが僕にキスをくれる。それは年端もいかない子供たちがするのとは訳が違った。僕達はもう10歳になる。ある程度の知識は入っているのだ。それでもアリサは僕に口付ける。僕は嬉しいような冷めるような、よくわからない気持ちになったけれどアリサの唇がとても気持ち良くてどうでもよかった。そのまま綺麗な川に流れるかのようにアリサの胸に手を触れる。抵抗は何も無かった。否、あったけれどああいうのは抵抗とは言わないのだとその頃の僕も思う。 僕達が誰かの声で目覚めると、そこにはアリサと僕の両親が恐ろしい顔をして、裸で折り重なる僕達を見下ろしている。なぜこの人たちは僕達だけの秘密の場所を知っているのだ?そう思おうとしたはずが、大人達の怒声で吹っ飛んでしまった。僕の母は泣いていて、僕の父は怒っていて、アリサの小母さんはヒステリーになっていて、アリサの小父さんは憎悪の目で僕を睨んでいた。 アリサと僕は離れ離れになってしまった。嫌だ嫌だと泣き叫ぶことも出来ずにアリサは遠い国へ行ってしまい、僕はひとり部屋で泣いた。 何もかもあの大人達のせいだ。 憎い。吐き気がする。ひどい頭痛。憎い。眩暈が。憎い憎い憎い憎い。憎い。 気が付くと僕は包丁を握り締めていた。目の前に散らばるこれは一体何なのか。否、覚えている。はっきりと覚えている。それを忘れるなんて到底有り得ない事なのだ。 「おとうさん おかあさん」 この肉片をそう呼べば、ぴくりと動いてくれるものかと少し思った。それほどこのがらくたは愛しく麗しい。近寄ってその匂いを鼻腔に注ぐ。汚らしい。そう思う。そう思うが、本当に、なんて、ああ愛しいのだろう。 僕は手のひらに溜まる汗が嫌でお風呂に入りたくなりバスルームに行った。服を脱ごうとまごついていると、ふと、大きな鏡に僕が映る。その時の僕はあの人たちの赤いものでまみれていて、それがとても不思議だった。あれをかぶる時に身が震えたのは、これのせいなのか。そう気付けば、その時のようにまた身震いしていて、アリサの中に吐き出した時のように、否、それ以上に気持ちが良かった。僕の体は痺れて動けなくなり、少なくとも10分はそこに立ち竦んでいた。 お風呂に入りたくない気分になって、そのまま朝までリビングにずっといたら急に灯りがついて、同時に悲鳴が聞こえた。僕は疲れて眠かったけどその声に驚いて立ち上がった。お手伝いさんがたくさん集まってきて、誰かが僕をタオルで包み込みながら強く優しく抱きしめる。頬がその人の涙で濡れた。そこで、やっぱり僕は濡れるなら昨日の夜みたいな、あれがいいなと思ったけれど何も言わなかった。いつのまにか警察が来ていて僕に話を聞いてくる。僕はなぜか「誰か入ってきて僕におとうさんとおかあさんを殺せって言った」と口にしていた。嘘をつく気はなかったのに。なぜだろう。今になっても理解出来ないが、確かにあの時僕はそう言葉を発したのだ。 それからすぐ、僕はお母さんの従兄弟の人に引き取られることになって、あの家を後にした。その時にはもうアリサのことなんか忘れていて、ただ思い返すのはあの日の夜と、あの日の夜の匂いと、あの日の夜の鏡に映った僕の姿と。 伯父さんは山の上らへんに住んでいて、車でも到着するまでにとても時間がかかった。伯父さんの家には伯父さんと伯父さんの奥さんと黒髪の女の子がいた。伯父さん達の娘なのかと訊ねれば、そうだよと優しく微笑み口髭の中に唇が隠れる。 僕と同い年のその女の子はタマキと言った。タマキは綺麗だ。アリサとは正反対の艶やかな黒髪を顎ら辺で切っていて、僕はタマキの髪が早く伸びて欲しかった。そうすればタマキはもっと美しくなるに違いないから。タマキはよく笑う。けどよく泣いてよく怒った。僕はそんなタマキを見るのが嬉しくて楽しくて、けれどどこかで鬱陶しかったのも事実だ。タマキが笑い、泣き、怒り、そしてまた笑い。それを繰り返すごとに僕は狂ってしまうかと思った。タマキは綺麗だ。そして愚かだ。 僕が伯父さんの家に来てから、もう5年の月日が流れていた。その月日の間にタマキは養女だという事を知る。僕とタマキは15歳になった。タマキの髪は少し伸びただけで、僕の望む長さじゃない。けれど僕がわざわざ、伸ばして、とタマキに頼むような事はなぜかしなかった。長くなりかけたタマキの髪を鋏で器用に切る伯母さんの手を、その鋏で切りたくて仕方がなかった。 その頃になると僕はタマキの背を越していて、タマキはそれが気に入らないようだった。ずるいと言う。ずるくないよと僕が言っても、ずるい、私も背が高くなりたい、女だからって男より低いのは嫌だ。そう言う。タマキが僕を見上げる度に何度もそう言うので、僕は面倒だった。こう何度も何度も言われるのなら僕の足を切ってタマキと同じぐらいにしようかと思った程だ。それを行動に移さなかったのは、その計画をタマキに教えた時タマキが泣いて、もうこのままでいい、この差のままでいい、と訴えたからだ。僕はタマキが泣き止むまでずっと傍にいてあげた。 ある夜、外から物音が聞こえて僕は飛び起きた。横のベッドに眠るタマキを起こそうかと思ったけれど起こしてタマキが何か出来るわけでもないので止めた。ガチャリと隣りの部屋からドアが開く音が聞こえて、こっそり小さくドアを開いてその隙間から何が起きているのか覗いた。いたのは知らない男の人で、どういう事だろうと訝った。見ていると伯父さんたちの寝室に入って行く。伯父さんの知り合いなのかも知れない、なんて思うはずもなく、強盗だろうと直感した。けれどここで飛び出てもどうしようもない気がする。そういった事を思っている間に伯母さんの悲鳴が聞こえた。そこでふと、ああ、あの時のようだと思い出す。そうだ。まるであの日の、朝の。 悲鳴にタマキが身動いだけど起きはしなかったので放っておいた。伯母さんの悲鳴が止む。いつのまにか僕の両手のひらは汗だくで、体も震えていた。足が勝手に動き出し、手が台所から包丁を取り出している。寝室のドアが勝手に、僕には勝手に、と思えたけれど、開けたのは僕の手でしかないんだろう。寝室のドアが音もしないで勝手に開き、僕の目には強盗の後ろ姿が入る。身を屈めているところを見ると、タンスの中から金目の物でも見繕っているのだろう。 いつの間にか僕の目には男の白いシャツが全体に映っていて、少し眼球を下に動かすと鮮やかな赤が滴っている。男はもうぴくりとも動かない。僕が何度も刺したせいだろうか。離れるように包丁を引き抜くと血が噴出しながら男が僕の足元に崩れ落ちた。顔や胸に飛び散って生ぬるかった。同時に狂える程全ての感情が引き出される。本当におかしくなるかと思った。震えと喉に篭る笑いが止まらない。これ程昂ぶっていたせいか、タマキが僕の背後にいるなんて気付きもしなかった。それに気付いたのはタマキが僕の名を呼んだからだ。 振り返ればタマキは呆然と泣いていて、まるで僕のように震えている。けれどその時の僕はもう震えてなんかいなく、ただ笑みが零れて仕方なかっただけなのだけれど。タマキの目線が僕、伯母さん、伯父さん、僕、男、僕、と動いたのがはっきりと解かった。何があったの、タマキは震えた声で言う。涙が床に滴り落ちて僕等以外の血に滲んだ。 「この男が伯父さんと伯母さんを殺して強盗しようとしたんだ」 タマキの涙と震えが更に酷くなって、けれどその震えた手で僕の下にいる男を指す。 「その 人 は 、」 後の言葉は無かったけれど、タマキが何を訊こうとしているのか理解出来ていて、僕は男の方に顔を戻した後、またタマキの方を振り向いて、口を開いた。 「僕が殺した」 そこで、僕は呆然とする。そんな言葉を吐き出そうとした訳じゃなかったからだ。僕は、伯父さんが死ぬ前に男を刺し殺して、その包丁を僕が抜こうとした、とか、そういうような嘘を、僕はタマキにつこうとしたのだ。なのに一体なぜだろう。理解出来ない。そこで僕はまたあの朝を思い出した。理由が、わからないのだ。 夜が明ける前に僕達はこの家を出た。タマキは何も言わなかった。ただただ黙って、僕が家中にガソリンを撒くのを焦点の合わない目で見ていた。出る前に僕が、タマキ、と呼ぶとタマキは僕の方を見上げたけれど、それでも何も言わなかった。その時僕はとても気分が悪くなった。そこで泣くか怒るか、何か表情を見せて欲しかったのに。けれど、タマキ、ともう一度呼んでみる気は無かった。ただ火をタマキに点けさしてあげようと思った。そこでようやくタマキが嫌がる表情を見せたので僕はとても嬉しくなり、タマキの手に血の付いた僕の手を重ね、タマキ、と呼んだ。今度は僕の目を見ることは無かったけれど、泣き出したので気分が良かった。火を点けるんだよ、僕が言うとタマキは、嫌、と言う。それでも僕がタマキの手を掴みながら火を灯してやると、勢いよくジリジリと家は燃え上がった。 タマキが発狂する。狂ったかと思った。泣き喚く。発狂する。五月蝿くて仕方が無かったけれど、その苦痛や絶望が入り混じったタマキの表情を見るとそんな事はどうとでもよくなった。タマキはずっと狂乱していたけれど、ここに最後まで居るわけにもいかないのでタマキの手を引き僕達はこの家を捨てた。 それから暫くタマキは狂っていたけれど、段々笑うようになってきた。僕はそれが嬉しいのか残念なのかよく解からない感情になったけれど、どっちでもよかった。僕とタマキは伯父さんの家から遠く離れた街まで歩いて辿り着き、そこでもうすぐ壊されそうな古びたアパートを見つけ、勝手に棲み出していた。ひび割れたコンクリートで囲ってあるそこは居心地のいいものではなかったけれど、それでも何か、妙に心地よかった。 この生活は僕達が18歳になるまで続く。 そしてその歳になった時、組織が僕と会希を迎えに来るのだった。 「一、私はあんたが、」 「…」 「……っあんたがぁ…っ………!」 「会希」 「、」 「君がこの差をつくったんだよ」 「はじ、(め) 」 「 僕は君になら殺されてもいいのかもね」 |