逆らうことは到底できない、という。
声には出さなかったが、そういった眼をして、自分を睨んだ。
「千笑」
と、優しく子の名を呼ぶ。びくりと艶やかに震えるかと思ったがとりわけ何もせず、なんでしょう、と伏目がちに答えた。仕事の顔である。そこで男は、む、と腹をたてそうになったが、無意識にこちらも仕事の顔をしてしまい、何も、と口を閉ざした。

ふたりの眼界に夜の色と提灯の色がもやもやと映る。

男はたまらずまた、前で歩く子の名を呼ぼうとした。言葉にはしない。思っただけである。たぶんこの帰路を歩く間は二度とこの少女の名を呼ぶことはないだろう。先ほどので終いだ。あの時、名を呼んだあの時、”これ”が仕事の顔で返事をしなければ、何もこんな蒸し暑くなることはなかったろうに。蚊が後ろを通る。

「それにしても」
と前の少女が切り出した。まさか向こうから声を出すとは思わなかったもので男は大層驚いたが、それで体が震えるということは微塵もなかった。何だ、と答えることはしない。そのまま言葉の続きを待った。
「籠出さはったほうがよかったんちゃいますか、」
もう夏ですえ、蚊ぁがぎょうさんおる。
言って、後ろにいる男を見た。驚いた顔をしそうなものだが、格別そういうわけでもなく、普段通りの顔をしている。いつのまにか男のほうは、仕事の顔をしなくなっていた。男が少女の持つ提灯に眼をやると、二匹、三匹と蚊が寄ってきていているのを見つけた。黙って手を差し出す。男がそういった行動をしたのは、提灯を遣せ、という意味であったが、子にはどういった意味かさっぱりわからず、自分の手をその手の上に重ねた。それこそ男は、ぎょっ、とした。違う、と慌てそうになりつつ手を払った。

「提灯を、」

それだけ言う。
それでもまだ子は何のことか分からずに、ぽかん、と口を開けたままだった。男は「何の話かわかっていないな」と確信していたので、子の返事をまたずに、ぼんやりと灯りのついた提灯を手早く奪った。同時に、空いているほうの手でまとわりつく蚊を払う。そして、す、と戸惑っている少女の前に出た。そのまま歩く。
後ろを向いて、帰ろう、等ということは何もせずに歩いたが、すこしゆっくりと歩いた。暫くして小さな足音が耳の裏のほうで聞こえる。
千笑が提灯のほうを覗き込むと、また、蚊が寄ってきていた。男の手にも蚊がいたが、すぐにあの雄々しい手でバチンと叩かれていた。
少女は、ふ、と笑いそうになるのを堪えることを努めたが、すぐに辛抱できず、ふふ、と小さく微笑んだ。その微かな笑い声に男は安堵しそうになった。が、やめた。