彼は何事も無かったかのように云うのです。
「自決を」と。


数回ゆっくりと、普段する呼吸のような速さで瞬きをした。戸惑う表情なんて一瞬もしない。ちゃきり、と鯉口を切ってみて、す、と臙脂色の鞘から青白い刀身を抜くのが自分の眼に映る。
彼は本当に驚くほど普通で。普通に、刀を抜いて、頭をたれる男のうなじに薄く添えているではありませんか。

男が自分の腹に短刀を、ぐ、と押し付ける。押し付けるだけで、未だ血は出ていないのだが。彼は黒い布の下にある眼でそれを見ているのだろうか。それとも瞑って、恰も仏のように時を待っているのだろうか。

思って、無意識に、ごくり、と喉を鳴らした。
鳴らすとすぐに何か、ひゅ、と音がして、俯き気味だった顔を真正面に向ける。
眼に映ったのは彼の鞘と同じ色で。

なぜここに鞘が、と思った。そう感じるのは一秒もしなく、次に映ったのは男の首から出る無数の血しぶきである。そんな近くにいるつもりはなかったのに胸に血が飛び掛った。生臭い匂い。ああ、彼は刎ねたのか、と思った。その通り、刎ねたのである。
なぜか意識的に跳んだ首を眼で捜す。想像していたよりえらく遠くの位置に頭部が転がっている。だんだんと焦点が合わなくなっていきながらも、じっとそれを見ていた。


「…腹ぁ切らす前にやっちまったよ、」


左横の方から自嘲気味に鼻で笑い、通った声で言う。通った声に聞こえたのは白い壁のせいなのか。彼の方を、はっ、と見た。口布を人差し指で少し下ろしている。珍しい、と思いながら口元を見た。思ったとおり口の端を上げていて、至福なんだろうと思った。

「……なに眉を顰めてやがる」

笑んだ唇から言葉が漏れ、それが自分に言われてるものだと気付くと、彼の口元から顔全体に眼を移した。
「…顰めていますか、」
随分と喉を使っていなかったのか、擦れ声で聞く。そのままの表情でつかつかと自分の方に歩いてくる。一瞬、一歩、後ずさりしようとするが、ぐ、と腕を掴まれ踏み止めることを強制される。緊張してか、彼の眼は見れないでいた。いつのまにか彼の刀は元通り鞘に戻っていて、腰元にぶら下がっている。刀を持っていた方の、腕を掴んでいない方の手がゆっくり上がる。すごくゆっくりなのだが今の私には凶器のように思えて眼を強く瞑った。しかし頬に手はいかず、いったのは自分の唇であった。

腫れ物を触るかのように指を這わされる。
その感覚に身震いして思わず眼を見開いた。


「な、にご、と です 、か」
「…血がね、」


ついてた、
言いながら顎で頭の無い男を指す。ちらっと胸の返り血も見て、ここだけではなかったのか、と思い、そうですか、と呟いた。
彼は黙っていて、自分も黙っていて、しかしまだその手は唇に在る。不可思議な顔をしていたのか、笑って「何事だ、その顔、」と言った。彼を見る。

「あなたこそ」
「何がだ」
「……手を、」

口には出していないが、離せ、と言う。ああ、と態とらしく呟いて手を解いた。腕の方である。今度は自分でも分かるほど眉を顰め、そっちではなく、と自由になった手で唇にある手を払うように触った。
が、刹那にその手を捕えられる。びくっ、と身が揺れた。くっ、と聞こえる。笑っているではないか。それに腹が立って勢いよく真横に手をやった。しかし依然手は離れない。少し、それは分かっていた。彼には力も頭も敵わないのである。いらいらとしながらも彼に手を預ける。その預けた光景にまた、ふ、と彼は笑った。
「えらく…大人しい」
今さっき、さっき手を払おうと暴れたではないか。彼にしてみればあんなもの、大人しい、の内に入るのか。は、と短く息を吐いた。ため息である。敵わないのだ、と思った。

見ていると彼はそのまま手を口元に持っていく。何事か、と思うと人差し指と中指が熱くなり、ひっ、と息をのんだ。彼の唇がわたしの指に触れている。口付けられているのだ。自分の手で見えはしないのだが彼はきっと、驚いている私を見て、笑っているのだろう。
あまりにも熱くて泣きそうになった。
彼の体なんてものは心同様冷たいものだと先入観があって、あった分余計熱く感じ泣きそうになる。

「…震えてる、」
「……」
「泣いてるのか」

息がつまりそうになる。
あの生臭い匂いが鼻について、泣きたくなる。
彼の意図が解からないのだ。

「なにが    」

したいんです、


自分でも驚くほど消え入りそうな声で。しかし彼は依然笑っているような気がして。泣きたくなって。





「……血の匂いがっ・・・ ・ ・  ・  ・   」